ほんきのよりみち

ほんきのようでほんきでない

あの日 窓辺から見えた夕日のはなし

私がまだ社会に出て4年ほどのことだったろうか。初めて部署異動というものを経験した。今でも思い出す、異動した先は四ツ谷の古いビルの8階、窓から外を眺めると目の前には上智大学の校舎が壁のようにたたずんでいた。右に目線を移せば構内にある聖イグナチオ教会の十字架が目に入る。そして外堀公園、名前は忘れたが四ツ谷駅に向かう橋の下には中央線が走っていた。

このビルは取り壊されるため、オフィスは1年後には別の場所に移転する予定であった。噂ではあまりにも古すぎて、ビルの外部に設置されている非常階段が使用できない(使用したら崩れる)とかいう噂があり、防災訓練の時もビル内部の階段を使用していたほどである。ビルに入っていたいくつかのテナントは、実際に移転を始めており、ビルの活気も徐々に失われつつあった。

私たちのオフィスは暗かった。照明が、というよりも、やはりそのビルの古さからくる陰湿さのようなものがあった。さらにすっきりした今どきのオフィスとは真逆で、各々のデスクには資料や文献が山積みであり、社員はその山に埋もれながら、地道に仕事をしていた。営業部とかはほかのフロアだから、特に活発に喋る人もいない。そもそも部員はおとなしい人が多く、たまに2つ横に座っているモサモサ頭の先輩が独り言を言うくらいであった。

それに対して、部長は快活だった。その年代の方にしては身長が高く、白髪交じりの豊かな髪を持つ、スマートな紳士だった。いつもベストを着ていて、人に興味があって、仕事には厳しかったがまだまだ若手だった私に色んなことを教えてくれた。若手の仕事であった年末のポスター発送も手伝ってくれた。「いいか、段ボールをそんな風に扱ったら手を切る。段ボールで手を切ると痛いぞ」とか言ってくれたにもかかわらず私がやはり手を切ると「だから言っただろう!」と(お前は阿呆か)とも言いたげな表情で、窓際の大きく立派な”部長”という感じの机の引き出しから絆創膏を出して渡してくれたりした。

部長は夕方早めに退社し、四ツ谷駅の先の路地にある小ぎれいな蕎麦屋で飲むのが好きだった。飲み相手は大体同年代の部長たちだったが、たまに私と私の同期も呼んで、その蕎麦屋の名物の大きなかき揚げを注文し、「お前たちは若いから食べられるだろう」などと、日本酒でほほを桜色にしながら楽しそうに喋っていた。

 

ある日の夕方、「おい、お前ちょっと来てみろ」と部長が私を呼んだ。部長は窓の外に向かって立っていて、私が何だろうと近づくと、さらに「見てみろ」と窓の外を見たまま言う。

ちょうど夕刻で、聖イグナチオ協会、そして外堀公園の向こうの空には美しい夕焼けが広がっていた。「きれいですね…」「そうだろう」部長は満足気に横で頷く。

思えばこの部署に異動してきてからこんなにじっくりと外を見たのは初めてだった。残業も多い仕事だったから、もしかしたら夕焼けを見るのも久しぶりだったかもしれない。空には薄く雲が広がり、赤、橙といったグラデーションは郷愁をも感じさせる。街にも徐々に灯がともり始めつつある。毎日あったはずなのに知らずにいた美しい世界。

 

 

「いいか、この気持ちを忘れちゃいかんぞ」

 

 

視界を広く持ちなさいとか、自分がいいなと思ったその直感を大切にしなさいとか、自分自身が情熱を持てる仕事しなさいとか、短いなかに色んなメッセージが込められた言葉であると思う。あれからもう何年もたち、転職によって業界も業種も変わってしまったが、今でもこの部長の言葉を時折思い出しては、あの言葉の意味を改めて考えてみ、あの時の気持ちを忘れてはいないかと自分の胸に尋ねるようにしている。

 

今のオフィスは高層階にあり、遠くに富士山が見える。夕刻になると毎日空は異なる表情を見せてくれる。本当に美しい夕景なのに、あわただしいオフィスで外に目を向ける人なんていない。もちろん、私は偉い人間ではないので、あの部長のように窓辺に部下を呼んで、ということはしないが、先日、隣に座っている入社4年目(当時の私くらいの年齢だ)の後輩にふと「見て、夕焼けがきれい」と声をかけてみた。この後輩は非常に真面目で、割といっぱいいっぱいになりがちの性格なのだが、私の声にハッとPCから顔を上げ、目線を窓に向けて「…きれいですね…なんだか久しぶりに夕焼けを見た気がします」とほほ笑む。共感してくれたことも、後輩がちょっと和んだ(ように見えた)ことも、とても嬉しかった。

 

こういった、嬉しいと思った気持ちも忘れないようにしよう。

ライバルだった同期のはなし

ちょっと前まで私にはライバルの同期がいた。同期といっても彼は新卒入社、私は転職組で入社年度は異なるのだが、社会人を始めた年度が同じという意味で「同期」である。

 

彼は人当たりもよく快活で、見た目もさわやか。冗談もよく言うし、仕事はそこそこではあったがよく先輩にかわいがってもらっていた。彼がいた部に私が異動してきたときも、フレンドリーな彼はよそよそしくする私に「俺ら”同期”やん!敬語使わんでええからな!」とか、何かと歩み寄ってくれた。本当にいいやつなのだが、キラキラした彼をなんとなく好きになれず、かつ同い年ということもあり私は彼を勝手にライバル視していた。部長も何かと私たちをライバルのように扱ったりするものだから、私は勝手に彼へのライバル心に拍車をかけたりもした。互いのデスクが背中合わせだったので、彼の仕事ぶりもさりげなくリサーチしていた。

彼は残業がめちゃくちゃ多かった。なぜこんなに遅くまで残業しているのだろうと観察してみると、第一に私語が多い。そして困っている人の相談に真剣にのったり、エクセルがわからなくなった嘱託のおばちゃんに丁寧に教えてあげたりしているのである。他の部のおばちゃんもパワーポイントの使い方を聞きにきたりしている。

 

「ある程度のところまで教えてあげれば、いいんじゃないの」「君が優しいからみんな甘えてくるから悪循環じゃない」

2人で残業していた時にそんなことを言ってみたことがあった。おせっかいだとおもいつつも。

「そやなぁ」

彼は椅子をこちらにクルリと向けた。

「でも、人に頼ってもらえて俺、うれしいねん」

そして、こんな話をはじめた。

 

彼は有名私立大学に入学し、大学時代はサークルの代表も務め、ゼミやインターンシップでもそこそこの成果を出してきた。”周囲からの評価もなかなかだった”ものだから、入社当時「正直天狗になっていた」のだそうだ。

入社後、彼はいわゆる「現場」と呼ばれる、顧客と直接接する部署に出向という形で配属された。しかし、なかなか仕事に身が入らない。なぜなら顧客と接するのはグループ会社社員であるべきで、本社総合職の自分は本来こんな仕事ではなく、もっとすごい仕事がしたい、とかなんとか、とにかく大企業の新人がよく陥る考えを彼も同様に持っていた。よって、なかなか仕事を覚えようとしない。覚えられないから自ら進んで仕事をしない。失敗してもミスを隠し、そのせいで未だに顧客と係争中の裁判もあるのだそうだった。

「ほんまありえへんやろ、ろくに仕事もせぇへんくせに他人と自分を勝手に比べて優越感にひたってな…しょうもない新入社員やった」

今の彼からは想像もできない話に驚く私を横目に、彼は苦笑いしながら続けた。

「だから、ここでちょっと名誉挽回せないかんと思ってさ」

入社して半年ほどたった頃、社内のイベントを催すことになった。本社の工場に、出向先の社員を集めて見学に行くというものだった。学生時代に同様の経験をサークルなりでしてきた彼は自らリーダーとして手を挙げ、見学者を募った。そして見学当日、工場に来たのは彼1人だけだった。普段の仕事ぶりから同期や先輩たちも彼に愛想をつかしたのだろうか。同期からは「お前、マジで人望なさすぎ」と笑われたという。大学時代まで周囲からちやほやされ、なんでもできると思っていた彼にとってかなりのショックな出来事だったのは想像に難くない。

さらに。

「俺には4つ上に兄貴がおるんやけど、浪人もしたしそこそこの大学出身やし、小さな銀行に入社して、とにかく俺から見たら地味やわ~って、正直見下しとった」

そのお兄さんとたまたま飲む機会があって、そこにはお兄さんの会社の同僚も同席していた。

「そんでな、兄貴がトイレ行くって席外した時に、いきなり会社の人が『お兄さん、本当に、皆から慕われてるんです。正直、なんでも器用にこなすタイプではないけれど、彼の勤勉さと仕事への熱意に私たちはいつもはっとさせられるんです』とか言うねん、ほんといきなり。身内としては嬉しかった、嬉しかったけど、今まで見下してた兄貴を、周りの人は認めてて信頼してて、慕ってる。なのに、なんで俺はこんな人望ないんやって、帰りながら自分がみじめになって泣いてしまった。」

 

 今度は私が泣きそうになった。だから、と彼は続ける。

 

「そっから俺、心入れ替えてちゃんとしようってようやく思ってん。人と比べて、人を見下して、調子にのって…それが何になんねんって。

その次の日から、朝イチに会社行って、誰もやりたがらない仕事率先してやって、誰かの為になろうってとにかく頑張った。そしたら皆んなだんだん俺のこと認めてくれるようになった気がする。まぁ、全然まだまだ俺なんて未熟やしあれなんやけど…とにかく、この社会で誰かに必要とされることが、どんなに大切でありがたいことか、ようやくその時分かったというか。だからどんなに小さなことでも、自分に頼ってくれたことに感謝せなあかんと思ってる…。なんてな!はは!」

と最後はちゃかして彼はまたイスをクルリと元に戻し、PCのキーボードをたたき始めた。

 

 

いい話聞かしてくれてありがとう、と私も再びPCに向きあったが、ついにその日の作業は全く終わらなかった。みんなから好かれている彼が過去人望がなかったことも、お兄さんを見下していたことも、驚くことばかりで頭の整理がつかなかったのだ。私はこういった過去の挫折や失敗を、正直に同期に話せるだろうか。

 

今日も彼は、忙しそうである。9時半に出社したくせに10時に早弁したり、缶コーヒーを飲みまくって缶のタワーを作り上司から突っ込まれたりと、仕事以外でも何かと騒がしい。しかし彼の”八方美人”を見るたびに、私もがんばろうと思うのであった。かつてライバル視していたころもあったが、今となっては彼はライバルではなく、ちょっと尊敬する同期なのである。

 

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ボストンで考えたクリスマスのはなし

昨年のクリスマスはボストンにいた。

 

ボストンは初めてであった。私の中ではアメリカのクリスマスとは「ホーム・アローン」であり、「ラブ・アクチュアリー」であり、とにかく街全体がデコレーションされ明るくテンションマックスなイメージであった。だがそんな浅はかなイメージを抱いていた私を鼻でせせら笑うように、ボストンは非常に落ち着いた大人の街であった。

空港に着いたのは日が暮れた後。空港から市内に向かう道中、ほんの少し明るさの残る空を背景に秩序正しく並んだ建物と、その窓から漏れ出る生活の光を眺めていた。この街ではネオンをほぼ見かけず、街灯の数も少なかった。夜になると街全体が非常に暗いのである。ただその分、窓からの光がより一層美しく、暖かく感じられる。

ボストンは世界トップレベルの大学や研究機関を擁する学術都市であり、ボストン茶会事件といったアメリ独立運動関連の舞台としても有名な歴史の深い街でもある。だからなのか、整然としたこの街を歩くたびにボストンの知性と威厳を感じ、ひとり感動したものである。寒かったが、その寒さも背中をぴんと伸ばしてくれるのだ。

 

出張での訪問だったのであまり時間はなかったが、ボストン美術館にはなんとか行けた。

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展示物はもちろんどれもすばらしかったが、それらを評する知識も文才もないのでやめておく。個人的にいいなと思ったのは、このクリスマスツリーである。

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世界各国の国旗が巻き付けてあった。かわいいなと思いながら、同時に世界中の人々がどうか幸せなクリスマスを過ごせていますようにと(もちろん、クリスマスの習慣がない人々も素晴らしい日常をすごしていますようにと)願わずにいられなかった。

本来クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日であり、家族で共に過ごす日であるのだっけ。もちろん、恋人や友人同士集まって騒ぐのも、淡々と仕事をして過ごすのも、個人の自由ではあるが、どんな過ごし方をしていても、クリスマスにはいつもよりも他者に優しく平和的でいたいと私は思う。

今年も色んなことがあった。日本でも世界でも、良いこともあれば理不尽で悲しいこともあった。2020年も色んなことがあるだろうが、ボストン美術館に飾られていたあのクリスマスツリーのように、世界の国々が仲良く並ぶような、平和な世界であってほしい。

 

 

 

 

 

 ちなみに、ボストン美術館の館内注意書き。最高におしゃれだ。ダンスしてもOK!

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今週のお題「クリスマス」

朝を報せる車掌さんのはなし

実家に帰ってきている。

昨夜、焼酎を飲んでいい塩梅になった父親が、いつもの昔話を始めたのでおとなしく聞いていたのだが、同じ話でも以前と今では感じるものが違って自分としても驚きだった。少しは大人になったのだろうか。

 

父は戦後間もなく鹿児島で生まれ、その後一浪して東京の大学に進学した。浪人中は「血尿を出しながら」必死で勉強したとのことを武勇伝のように話す。正直「血尿」が出たとかいう表現は上品でないのでやめてほしいのだが、父は少々野蛮な物言いをし、いちいちそれを正すのも面倒なので聞き流している。

さて、父は苦学生であった。実家からの仕送りも多くないので、肉体労働で日々の生活費を稼いでいたようだ。給料日前にお金が底を尽きるのはよくあったそうで、そのたびに布団一式を行商人のように頭の上に担ぎ、質屋に持っていったそうである。

いつもこの、質屋に布団を持っていくくだりで私は笑ってしまう。以前、その話を会社の年配の方に話したところ、「質屋さんも優しいですね。一体、他人が昨日まで使っていた布団がいくらの価値になるんでしょう」と笑いながら仰った。たしかに、そのとおりである。質屋さんも地方からきた苦学生への優しさでお金を貸してくれたに違いない。昭和の学生街はきっとそんな優しさで成り立っていたのだろう。

前置きが長くなったが、父の昔話のなかで私が一番好きなのは、夜行急行に乗って年末年始、故郷の鹿児島へ帰る話である。

当時、飛行機はまだまだ手の届かない値段であったから、父のような学生たちは故郷へ夜行列車で帰っていたそうだ。夜行急行「桜島」「霧島」、寝台特急「なは」といった列車を使い、2日弱の時間をかける。寝台特急はやぶさ」も東京~九州間を走っていたそうだが、父はこの「はやぶさ」には乗ったことがないという。

さて、これら列車は年末年始にもなるとやはり人が大勢利用するので、立ち乗りの人もいたようだ。(車両に等級があったのだろうか。あったとしてもおそらく父は一番安い車両に乗っていたと推測する)父はなんとか座席を確保するが、その後父の席の横に美しい女性が立っている。1日半かけての旅路を前におおらかな気分になっていた父はその女性に席を譲ってあげた。「立っているのはきついでしょう、席をお譲りしますよ」「ご親切に、どうもありがとうございます」「どちらまで行かれるのですか?」「熊本まで」

瞬間、父の頭のなかには「やってしまった…」という文字が浮かんだであろう。せっかく席を確保していたのに、この女性が下車するのははるか先、熊本であった。しかし本人はあくまでも平静を装って1日半、立ったり隅っこに座ったりして過ごしたそうである。

列車の話でもう一つ好きなのが、「朝を報せる車掌さんの話」だ。

実家でゆっくりと年末年始を過ごし、父は正月明けに上京するため再び列車に乗り込む。九州の南端からなので、福岡に入るころにはもう真夜中だったのだろうか。途中、停車する駅のホームでそばを食べたり、何度も読み古した小説を読んだり、あるいはいびきをかきながら眠ったり、乗客は列車内での夜を思い思いに過ごしていた。そしてちょうど列車が山口あたりにさしかかるあたりで、空がうっすらと白んでくる。

「次は、あさ~、次は、あさ~」

車掌の声が列車に響き、乗客たちは目をこすりながら夢から目覚めることになる。実は車掌がしらせてくれる「あさ」は「朝」ではなく「厚狭駅」のことなのだそうだが、ロマンチストな父は「車掌さんが朝を報せてくれるんだ」と、うっとりとした口調で話す。

この話を聞くといつも私は谷川俊太郎の「朝のリレー」を思い出す。

 

カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 

厚狭駅付近で父や乗客たちが迎えた朝は、どんな朝だったろうか。まだ自分の降車駅は遠いと、もうひと眠りする人。田舎の両親が持たせてくれたお弁当をかきこむ人。眠い目をこすりながらも初めて見る車窓の風景を眺める人。

ひとりひとりにそれぞれの朝がきて、それぞれの一日が始まるのは今も昔も変わらない。ただ、飛行機や新幹線といった高速の移動手段が主流の今、寝台列車や夜行急行といった列車は続々と姿を消していく。車掌さんが「あさ」を告げるということもとうの昔になくなったのだろう。私たちが享受している交通の便利さは、かつての旅情を消しつつ発展していく。今回父の思い出話を聞きながら、その事実をさびしく感じたりするのだった。

 

※本記事は父の思い出話をもとに書いているので、列車名等史実と異なる記述がある可能性があります。あくまでも老人の思い出話として読んでいただければ幸いです。

本気の寄り道

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最近気づいたのだが、頭の中で分かったようなふりをしていながら、何もわかっていないのだった。

 

例えば同僚や友人との会話の中で、またはテレビや雑誌で見聞きしたことで、気になることがあっても自分ひとりの頭でぐるぐると考え、時に煮詰まるとネットでどういった意見が交わされているのか検索し、またそれを踏まえてぐるぐると考えるのである。それで、おわり。

 

元来、人と話すのが非常に苦手だ。意見を言ったところで「そんな意見しか言えないのか」「趣旨とずれている」と思われたらどうしようと、勝手に被害妄想を抱く。だから、これまで意見を交わすのはごく少数の友人(しかも心を許した)のみで、それ以外の人々の輪の中ではまるでインタビュアーのごとく人の話を引き出す役に徹していた。「あなたは人の話を引き出すのが上手ね」とよく言われるようになったが、それはそれでむなしい気もする。人から話を聞いてもらうのはたいそう気持ちがよいだろう。だが、他人の気持ちをよくする役に徹していて果たして楽しいだろうか人生は?

 

だからこのブログでは、日々または旅先で見聞きし思ったことを好き勝手に語る場にしたいと思う。

好きなことは旅行と食べること、音楽、あいどる、動物、歴史に思いをはせること。専門といえることはまるでなく、どれもにわかレベルの知識しか持ち合わせていない。仕事はそれなりに頑張ってきたし評価もされてきた。だけど近頃はこれが自分の本当に生きたい人生なのかとぼんやり考えたりもする。好きなことをして生きたい、自分の興味や知識欲といったものをもっと満たして、楽しく生きたい。

このブログのタイトルは、かつて自分が通っていた早稲田大学の奇祭とも呼べる「百キロハイク」(埼玉の本庄から都内のキャンパスまで2日間かけて100キロ以上の道のりを仮装して歩き続ける早稲田らしく愛すべき過酷なイベント)にてかつて掲げられたスローガンから拝借した。「本気の寄り道」。当時の当イベントの主催者のブログにはこう書かれている。

テーマは「本気の寄り道」、参加者に、自分自身の意識を持つこと、挑戦すること、それを通じた発見を訴えた。約千人の参加者は、意気高く、それぞれ自分の脚でしっかり歩いてくれた。大隈講堂前で迎えた完歩者の前を見据えた目は、忘れることができない。

これまで、平坦ではないにしろ、自分なりにまっすぐな道を歩こうとしてきた。しかし、それにもう疲れてしまった。まっすぐ歩くのが人生ではないだろう、右や左、後方へ進んでも、時に止まってもよいだろう。先を急ぐ他者からは「寄り道」と言われるかもしれないが、私は私の人生を寄り道しながら進んでいきたい。自らの意識による本気の寄り道。その寄り道の先には自らが満足できる幸せな人生があると、思っている。